2005年12月12日、私のデスクの電話が鳴った。人事部からだった。デスクの電話が鳴ることはめったになかったので、これはちょっとした驚きだった。だが、そのときはあるプロジェクトに手を貸して大成功させたばかりだったから、受話器の向こうから温かい祝福の言葉をかけられるのだろうと、笑顔で待ち構えた。
というのも、その前の金曜日、私がヤフー社内の緩やかに組織された仲間たちの力を借りて企画した、第1回の社内ハックデイが実施されたからだ。このイベントに「ハック」という言葉を使ったのは、ハッカー文化に敬意を表するとともに、うまく機能していないシステムの修復に全員であたっていることを示すためでもあった。
アイデアそのものはいたってシンプルである。私たちの部署のエンジニア全員に丸1日休みを与え、彼らが本当につくりたいものをつくってもらう。ルールはただひとつ、24時間以内に何かをつくり、最後に発表することだった。イベントの基本的な段取りは、小さな新興企業(スタートアップ)によく見られる取り組みにインスピレーションを得たが、すでに地位を確立した企業が、この種のイベントをこれほど大規模に実施した例はなかった。
第1回ヤフー・ハックデイは大成功だった。イノベーションの創出に苦労していた当時のヤフーで、わずか24時間という短い時間に、約70の試プロトタイプ作版が何もないところから生まれたのだ。発表の場は大変な熱気に包まれ、参加者は叫んだり、歓声を上げたりと、とにかくにぎやかだった。Tシャツ姿のソフトウェア開発者たちは、金曜日の夜遅くまで会社に残り、何かをつくりたいというだけの理由でほとんど徹夜で完成させた試作版を披露した。ソフトウェア・プログラマーのエリック・レイモンドは、オープンソース・ソフトウェアについての独創性に富んだ著書『伽藍とバザール』(邦訳・USP研究所)のなかで、「優れたソフトウェアはどれも、開発者が自分のかゆいところに手を伸ばすことから始まった」と書いている。ヤフーには、かゆいところがある開発者が大勢いたことは間違いないが、彼らがいっせいにかゆいところをかいてすっきりするためには、ハックデイのようなイベントが必要だった。
人事部からの電話に話を戻そう。私は受話器をとり、ねぎらいの言葉をかけられるものと期待した。ところが、電話の主は、ハックのひとつをすぐにやめさせるようにと言ってきた。それはカル・ヘンダーソンが手掛けたもので、彼はヤフーの社内ディレクトリ(「バックヤード」と呼ばれるイントラネットからアクセスできる)に使えるアプリケーション・プログラム・インターフェイス(API)を開発し、「ホットオアノット」(ユーザーが投稿した本人の写真を、他のユーザーが1から10までのランクで「イケてる度」を評価して投票するウェブサイト)スタイルの「バックヤード・ウォー」アプリをつくり上げていた。この「戦い」が具体的に何を争うものなのかを理解している者はいなかったが、最後に何が起こるのかもわからないまま、同僚たちを無作為に選んで競わせるのは理屈抜きで楽しかった。私が組織した即席の審査委員会は、ヘンダーソンのハックを優秀作品に選んでいた。
電話をしてきた人事部の担当者は、まったくの見当違いをしていた。私はハックデイの企画には携わったものの、イベントそのものや参加者に対しては実質的に何の権限もない。あえてそのように企画したのだ。事前の参加登録は必要なく、プロジェクトやテーマを設定することもなく、プロジェクトのための中央サーバーも用意されなかった。たとえ頭に銃を突きつけられても、私には「バックヤード・ウォー」を止めることはできなかったのだ。
おそらくその人事部の人間は、最後にはこのアプリの開発者がヘンダーソンであることを突き止めただろうが、そのこと自体はどうでもよかった。以後のハックデイでは、少しばかり危険なものに手を出そうという雰囲気がつねに漂い、誰も口には出さなかったものの、今回は誰が人事部から呼び出されるか、水面下で競争が繰り広げられた。システムを変えようと何か行動を起こすときには、何人かを怒らせることになると思っておいたほうがいい。
その最初のイベントで、方向性は定まった。そして、第1回ハックデイのまったくの即席のフォーマットがいつの間にか標準になっていた。私はこの最初のハックデイ、70ものプ レゼンテーションがおこなわれるとは予想していなかった(始まるまで、誰がプレゼンテーションをするのかさえわからなかったくらいだ)。当初は各チームに5分から10分の発表時間を割り当てるつもりだったのだが、70もの企画があるとわかり、直前になって1チームあたり2分以内におさめるように変更せざるをえなかった。何年も後になってから、ハックデイの日にエレベーターに乗っていると、参加者の1人がもう1人にルールを説明していた。「いいか、デモはいつも2分間だ。それがルールだ」。この「ルール」がいつのまにか定着していることを知って、私は思わずにやついてしまった。
その後、私たちは世界の3大陸でハックデイを実施してきた。社内イベントとして続けるとともに、第1回ハックデイから9カ月後には、誰でも参加できる初のオープンイベントも開催した。基本的な「ルール」は変わらない。参加者はさまざまな問題を解決するための試作版をあれこれつくってきた。開催場所に応じて異なるのは食べ物だけ。カリフォルニアではピザ、バンガロールではサモサ、ロンドンではまずいイギリス風ピザといった具合だ。
ロンドンではBBCと共同で、アレクサンドラ・パレスを会場にしてハックデイを開催した。ところが、イベントの開始直後に落雷で電源が落ちたために火災予防システムが作動し、屋根の大部分が開いて室内に雨が降り注いだ。すると参加者たちは傘を取り出し、電気が復旧するのも待てずに紙にアイデアを書き始めたではないか。クリエイティブ魂に一度火がつくと、大雨で室内がずぶ濡れになるという想定外の事態でさえ止めることはできないのだ。
ハックデイは、あの最初の日以降、IBMなど他の企業でも取り入れられてきた。グループチャット・アプリを開発する「グループミー」は、2010年5月に情報系ウェブメディアのテッククランチが実施した「ディスラプト・ハックデイ」から生まれたベンチャー企業だ。この企業はイベントの3カ月後に資金提供を受け、その後1年もしないうちに数千万ドルを売り上げた。政府機関も、市民から行政改善のアイデアを得るために、ハックデイを組織することがある。最近の例をあげれば、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの「リンクトイン」が退役軍人の支援を目的にハックデイを企画した。
私はよく、ハックデイはなぜこれほどうまくいくのかとたずねられる。ハックデイが成功した理由はいたって単純だ。ハックデイでは、とにかく何かを実行することだけが重視される。世界でいちばん優れたアイデアを持っていても、何か形にしないかぎり、誰も気にかけてくれない。
私が最初のハックデイを組織したころのヤフーでは、「アイデア・ファクトリー」と呼ばれるオンライン提案箱を社内に設けていた。社内の人たちからアイデアを募集するためである。これは一見、無難な方法のように思えるが、そこには重要なイデオロギー的欠陥があった。誰もが、自分のアイデアを他人に横取りされ、自分は開発からはずされるのではないかと心配するからだ(もっとも、自分のすばらしいアイデアをまだ誰も使っていない、と不平をこぼす投稿はあった)。ハックデイには、そういった問題はない。このイベントでは、自分のアイデアとその具体化に関して、自分で責任を持つことができる。ただし、2分間のプレゼンテーションでデモを披露できなければ、企画もそこで終わる。
ハックデイでは、口先だけの人間か行動する人間かがすぐにわかる。最初のハックデイを組織するとき、イベントが退屈なスライドショーの連続で終わらないよう「パワーポイント禁止令」を出したところ、それがイベントのスローガンになった。実際、パワーポイントの出る幕などなかった。ときどき、試作版もないのにパワーポイントでプレゼンテーションをしようとする者が現れる。すると、その人物は激しいブーイングを浴び、自発的に退場しなければ、容赦なく発表を妨害された。ハックデイには、中身のないスタンドプレーを許さない空気がある。余計な話はいいから、つくったものを見せてくれ、ということだ。時間は2分しかないのだから。
この本では、さまざまな企業がイノベーションを達成した方法について、多くの例を紹介している。どの企業にも次のような共通点があることに、読者のみなさんは気づくだろう。これらの企業は、余裕さえあれば人間はすばらしいものを生み出すと信じ、その時間と場所を捻出しようと必死の努力をしているのだ。
ハックを楽しもう。そして、覚えておいてほしい。人事部からの電話など放っておけばいいのだ、と。
チャド・ディッカーソン
(チャド・ディッカーソンはハンドメイドやヴィンテージの品を扱うマーケットサイト「エッツィ」のCEO。ヤフー・デベロッパー・ネットワークのシニアディレクターだった当時、ハックデイを企画した)